私は真顔のタコになる
さて、とにかく何か書いてみるか。
とある批評誌(批評誌!?)に論考(論考!?)を寄稿する予定ができてしまったので、文章を書ける身体にしていくために、なるべく毎日何かを書いてここに載せるようにしていこうと思う。この文章は自分で作ったSateというエディタで書いている。
一時期Image Castの有料サポーター向けに日記を書いていたが、それが終わってからしばらくまとまった文章をWebに載せるようなことをしなくなったので、人様に見せられる文章を書くということに身体が慣れていない。誰にも見せない自分のためだけの文章(つまり、昔ながらの日記)とは別で、空気に触れても酸化しないような文章を書くということにはそれなりの姿勢を作っていく必要がある。なんというか、ピンと背筋が通っている文章というか。
もちろん背筋が通っていない文章にもそれなりの魅力がある。猫背の文章。気負わず、人に見られることを想定せずに書いたものがうっかり表に出てしまったようなもの。人の書いたそういうものも好きだし、自分もあまり気負ってしまうことで文章が書けなくなってしまうぐらいならそのようにして書いてしまった方がいい、と思って、書いた日記を半クローズドな場所で公開していた。
しかし私ももう35歳だ。ここで唐突に一人称を私にしてみよう。35歳だから。まだかなりむずがゆいものがあるが、人様に出して恥ずかしくない文章を堂々と出せるようにしていきたい。こいが俺ですばい(九州男(くすお))
↑こういうことを書いてふざけ始めるからダメなのだ。今だってこの曲名が間違ってないかどうかを確認するために検索してレビューを読み始めて20分無駄にするところだった。文章でボケるのには時間がかかる。ボケる時の言い方が間違ってるのが一番恥ずかしいから、このように時間を使ってしまうのだ。中学生の時のブログからずっとそうだった。真顔で文章を書けば自分以外のことを気にして脇道に逸れる必要などない。
真顔日記というのは私の尊敬するテキストサイト管理人の上田啓太のブログの名前だったが、今検索したらドメインが消えてしまっていた。この文章も数人に読まれたあとはやがてインターネット上から消えてしまうだろうが、まぁそれでもいい。私が文章を書いてインターネットに載せることをし始めたのは彼のd.j.ペリカンマッチの影響だし、ポッドキャストをやっているのは彼がクリトレシートの岩田さんとやっていたネットラジオ トム&ハンクスの影響だ。こんなものは検索してももうほとんど痕跡も残っていない。それでも中学生の自分がMP3プレイヤーに入れてニヤニヤ笑いながら聴いていたことは確かなのだ。誰かの行動や考え方に小さくても確実な影響を与えた後でインターネットの薄いシミの一つになる。
批評と言われる文章を読んで言ってることが完全に理解できた試しなどないし、論考などもちろん書いたこともないが、私がこの仕事を受けようと思ったのは、ちょうど福尾匠氏の『置き配的』という本を読んだ後だったからだ。日記のようだったものが途中からそうでなくなり、また日常に還ってくる。その往還の中で新しい世界の見え方を構築しようという試み。批評で大事なのは、ハイデガーやドゥルーズ&ガタリを引用することではなくて、日常の物事に対する自分の身体の感じ方、見え方をその解像度の限界まで描写しようとすることだと感じた。その結果、おのずと一般的な面白さの枠組みでは評価できなくなる。それが日常や共感に接地しきれなくなり、日記やエッセイというような枠に収まらなくなった時のために仕方なく批評や論考という名前が用意されている。自分がタコのような軟体動物だとして、海底の岩に抱きついたら岩の隙間という隙間の中に触腕を滑り込ませてその中の形を探っていき、それを触覚や嗅覚や味覚といった全身の器官で事細かに感じ取っていき統合してタコなりに描写する。それで現実の世界の多次元的な形を理解しようとする。タコが書いた文章を読んで理解できないとしたら、それは自分がタコになれてないからだ。そういう文章を書くためにはいつまでも日常に立っていてはダメだ。私は真顔のタコにならなくてはならない。
そういうふうな身体に仕上げていこうと思う。タコには背筋が通っていないので先ほどの例えが根本的に矛盾をきたしていることが問題である。どこまでいっても自分の書く文章なので批評や論考といった形式にはそぐわないかもしれないが、少なくともタコになろうとした人間の末路として読めるものにはしたい。これからしばらくの文章は自分のテキストサイトに公開されていく。実際に掲載されるものも、その中からとっかかりを得て何かを掘り下げていくものになるかもしれない。