スポーツのカー
待ち合わせ場所に友人が白のオープンカーで現れて、さすがに笑ってしまった。
私の同僚で大学時代からの友人がいる。仮にKとしよう。たまたま仕事で、日帰りで軽井沢に打ち合わせに行くことになったので、車に乗せてもらっていくことになった。彼が車を買ったという話は聞いていたし、それがマツダのロードスターという車であることも知っていたが、実際に15年来の付き合いの友人がスポーツカーで現れると、その光景のいびつさに思わず笑ってしまう。
同い年で30代半ばのKは、オンラインゲームで知り合った友人から4ヶ月ほど前にこの車を中古で買ったらしい。同僚で給料もどうせ同じぐらいなのでわかるが、別に経済的に成功しているからスポーツカーを買ったというわけではない。ただ単に趣味として車を買ったということだ。金額も、中古なのもあって一般的な車と比べて目玉が飛び出るほど高いというわけでもない(それでも自分で買おうとは思わない額だが)。とにかくただ単に、趣味として、車を買った。
私には車を趣味にするという発想をいまだ理解しきれていないところがあり、スポーツカーというものは一山当てた人がその成功を見せびらかすために買うものだという意識がまだ残っていた。スポーツカーというものは、ただ単に買うこともできるのだ。
振り返ると、そもそもスポーツカーという名前に納得がいっていないところがあった。車というものは原則的に人や物をある地点から別の地点に移動させるための機械であって、その移動の過程に楽しみがあるというところまではわかるが、その移動の行為そのものを「スポーツ」と呼んで、移動自体をその副産物のように扱うのはヘンなことだと思っていた(それは私がスポーツと名のつくもの全てを嫌っているからかもしれないが)。しかし実際に友人の車に乗ってみて、スポーツカーに乗るということがどういうことか、少しだけ理解できた。
ロードスターという車は、能面のような切れ長のヘッドライトが特徴的な二人乗りの小さな車だ。そもそも二人乗りの車というものに乗ったのが生まれて初めてだったからそう感じるのかもしれないが、実際に近づいて乗ってみると本当に小さい。遠近法トリックのようだ。駐車場で他の車と並んでいるのをみると、どこか嘘っぽいというか、ミニカーを連想してしまう。そしてその小ささは当然ながら細部に至るまで取捨選択が行われデザインされたものだ。
空間が狭いことで、車の中と外の体感差が小さくなる。乗っていて気づいたことだが、左右のドアの上部、窓が出てくるところの内側の素材に、ボディ表面の素材と見た目や触り心地が同じものを使っていて、座席からの視線だとボディの外と中が一直線に繋がって見えるようになっている。車の外と中の違いを曖昧にするための工夫だろう。
一方で、車高が低いため、タイヤと座面との距離が短く、サスペンションのための空間をあまり取れないためか路面のガタつきは揺れとして強く反映される。振動やエンジン音で音楽は聞こえづらくなる。トランクは狭く、大きなキャリーケースなんかは入らない。リクライニングも、座席を前に出せば少し倒せる程度だ。少なくとも、ゆったりとくつろげる快適な空間ではない。それらは全て、この小ささのために支払う代償だ。皆そんなことはわかった上でロードスターに乗っているのだ。この車のデザイナーの意思決定、取捨選択に賛同し、同意した人だけがこの車に乗っている。そこには彼らしか知らない、自ら選び取った甘美な不自由さというものがある。
4、5歳くらいの小さい頃に父が運転していた車はマニュアル車だったが、朧げな記憶しか残っていなかった。自分はAT限定の免許しか持っておらず、改めてマニュアル車の運転を間近で見ていると、かなりせわしない。ハンドルやアクセルやブレーキ、ギアの細かな切り替え、加えてカーナビや音楽の操作を器用にこなしているのを見ると、それ自体が曲芸的で、格ゲーのプレイヤーのコントローラーだけ見ているようでもある。ADHDにはこれぐらい頻繁な操作が求められるほうが落ち着けるのだとKは言っていた。自分でもなぜこんなことが自然とできるようになったのかよくわからないとも。与えられたものであれ選び取ったものであれ、人はある程度の不自由さには慣れてしまう生き物だ。それを適応と呼ぶ。
デザインすることは人の動きに制約をかけ、自由度を減らすことでもある。よくいう話だが、人は机に向かってペンを持つことで、身体の自由度を限られたいくつかの関節の動きにまで縮減し、2次元の平面上に文字や絵を描くことができる。それで描き出される世界に、別の次元の自由さを感じることができる。スポーツカーを買った彼の生活や身体に起こっているのもそういうことなのだろうか。